アメリカ人マンガ家のコラム:「Manga」論争について。

アメリカの総合エンターテイメント・サイトBUZZSCOPEに掲載されたアメリカ人マンガ家タニア・デル・リオによるコラム"Read This Way #1: You Say Potato, I Say Manga"(1月6日)の要約。

昨日のエントリー(1月5日)を見てもらえるとわかるのだが、最近アメリカ産マンガが脚光を浴びているせいか、“アメリカ産マンガをどう呼ぶのか”があちらのファンの間で議論を巻き起こしているようだ。

日本産以外は「マンガ」と呼んではいけないのか?アメリカ産でもある特定のスタイルを持ったコミックスはマンガと呼んでいいのか?アメリカ人マンガ家であるデル・リオ氏はこの対立に対して「結局名前なんてどうだっていいよ。でも日本マンガのスタイルはコミックスとは別にもう確立しているから何か別の名前はいるけどね」と述べておられます。

誰か私の赤ちゃんに名前を付けるのを手伝ってくれない?見てよ、可愛いでしょ。おむつを履いて目をぱちぱちさせている。まだちっちゃくて立つのもやっとだけど、きっと大きくりっぱに育つと思う。私はこの子に「マンガ(Manga)」って名前を付けたいんだけど、嫌がる人たちがいるんだ。その人たちはこの子が日本で生まれていない限りそう呼んじゃダメだって。信じられる?

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ハッキリここで言っておこう。「アメリカ産マンガ(American Manga)は本当に“マンガ”なのか」という論争自体がばかばかしい、と。この問題を個人的攻撃と受けとめる人がいるのは本当に不思議だ。でももっと不思議なのは最も激しいマンガ純粋主義者や擁護者たちが日本人ではなく、若いアメリカ人だということだ。

日本人の中にはアメリカ産マンガを好ましく見ていない人もいるのは本当だろう。あるアメリカ人ファンたちは、アメリカ産マンガを「ニセイ・マンガ」と呼び始めた。「二世(ニセイ)」と「偽(ニセ)」をひっかけた言葉だ。この二重の意味の使い方は面白いと思うし、私自身はアメリカのアニメ・マンガファンが自分たちを「オタク」と呼ぶのと同じように、アメリカ産コミックスを「ニセイ・マンガ」と呼んでも構わない。

知らない人のために書いておくが「オタク」という言葉は日本ではあまり良い意味を持っていない。アニメ・マンガに限らず銃だろうが、ペットボトルのふただろうが、値打ちもののポスターだろうが、何かにはまっている人たちを指す否定的な意味の言葉だ。

しかしアメリカでは、多くのアニメ・マンガファンたちが自分たちを誇らしげに「オタク」と言う。自虐的になっているのではない。この言葉の意味は海を渡ってくる間に変わってしまったのだ。今アメリカで「オタク」は単に熱烈なアニメ・マンガファン、という意味である。

アメリカ人オタクは仲間うちの話し言葉に日本語を混ぜることに貪欲だ。キュートなものを見れば「カワイイ」と言い、部屋を出る時には「ジャ、マタ」と言う。ある意味、これらの日本語は既に「Karaoke」「Honcho」*1「Ninja」「Futon」などのように普通の英語の言葉になりつつあるのだ。

私にとってこれは結局「レッテル貼り」の問題である。そして私はいつも「レッテル」は一時的で常に変化し続けていると感じている。要するに、利便性だけの問題なのだ。

私はマンガが好きで、自分の中にも「オタク」的な部分があると思っている。そんな私には、なぜ一部のファンがアメリカ産マンガの成長により脅かされていると感じているのかがわからない。芸術のスタイルのグローバル化はとても素晴らしいことだと思う。他の文化から何も借りてくることの許されない世界がどのようになるか想像してみるといい。

アメリカ人には日本のマンガから影響を受け同じような形式の芸術を作る権利は無い、と考えるのは馬鹿げている。アメリカ人は自分たちの文化のために他の文化から何かを変えて取り入れている。アメリカ人は日本産マンガを根絶しようとしているのではない。日本産マンガをアメリカ産と取り替えようとしているのでもない。そしてアメリカ産を日本に売りつけようとしているのでさえないのだ。アメリカ産、ヨーロッパ産、そして世界中の国で作られたマンガのためのスペースはまだ沢山ある。

「マンガ」はただ「コミックス」という意味の言葉であり、日本産でないものを日本語の「マンガ」という言葉を使って呼ぶ権利は私たちにはないというアメリカ人もいる。それでは私たちアメリカ人は日本に向かってアメリカから借りてきた言葉を使わないでくれ、と言うべきなのだろうか。音楽のBluesはアメリカのものなのだから、「ブルース」と呼ばないでくれ、演奏しないでくれと言うべきなのか。ばかばかしい。

数年前に私は日本語の授業を受けた。先生がクラスを回り私たちの職業を尋ねた時私は「コミックスを描いている」と答えた。すると先生は言った「マンガ家なのね!」私が日本のマンガスタイルのコミックスを描いている、と言う前に先生はこう言ったのだ。先生の言葉は単に「コミックスを描いている人」という意味で、私がスーパーヒーローや他のスタイルのコミックスを描いていようが気にしなかっただろう。私がコミックスを描いているということは、先生に関する限り「私はマンガ家」ということなのだ。

アメリカ人は単にアメリカ産マンガを「コミックス」と呼ぶべきだという意見もある。何故なら実際にそうなのだから。しかし私は「コミックス」は包括的用語だと考えている。コミックスの下には「スーパーヒーロー・コミックス」「インディー・コミックス」「ウエブ・コミックス」「コミック・ストリップ」そして「マンガ」がある。

「マンガ・コミックス」と呼ぶのは文字通り重複になるが、実際「マンガ」はある一定のスタイルを指す言葉としてもう既に私たちの言語に入り込んでいると思う。そして既に西洋社会で変化し、単に「コミックス」という元々の意味は変わっている。それはまさに「オタク」の意味が変わったのと同じだ。アメリカで「マンガ」は「日本的スタイルを持つコミックス」を意味するのである。

そして結局「マンガ」とは二つの音節を持った一つの言葉に過ぎない。言葉に意味を与えるのは私たちだ。アメリカ産マンガを「パンプキン・パイ」と呼ぶことだってできる。そうしたとしても本質は変わらないのだ。

アメリカ人はこの芸術的影響の波を抑えるようなことは止めるべきであり、未来に向かって進んでいること、大陸間の距離が縮まり影響を与え合っていることを受け入れるべきだ。これは戦争でも競争でもない。芸術とは分かち合うこと、変わること、そしてまた分かちあうことを意図されるべきものだから。

いつかアメリカ人がアメリカ産マンガに対して新しい言葉を見つける日が来るだろう。「OEL」「アメリ・マンガ」「ニセイ・マンガ」。それとも「パンピキン・パイ」?今韓国産マンガは「Manhwa」と呼ばれ中国産マンガは「Manhua」と呼ばれている。でもそれもただのレッテルだ。

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私の赤ちゃんの名前は好きに付けることにしよう。多分「パンプキン・パイ」?

*1:訳者注:日本語の「班長」からきた言葉。英語のhonchoは「リーダー」という意味で使われている。