ショート・ドキュメンタリー「アニメ in アメリカ」:昔アメリカで日本アニメはどうやって手に入れられていたか?

インディペンデント系フィルム専門のデジタル・ケーブルチャンネル「インディペンデント・フィルム・チャンネル Independent Film Channel」のHPで、「アニメ in アメリ」というショート・ドキュメンタリーを見ることができる。

アニメ in アメリ」は「アンダーグランドからのテープ」と「エイゼンシュタイン先生」からなる2部構成。

アンダーグランドからのテープ」では、今ほどテレビでアニメを見れなかった時代にファンがどうやってアニメを見ていたか、「エイゼンシュタイン先生」では、日本アニメがアメリカのアニメと違って実写映画的であることについて語る業界の人々のインタビューで構成されている。

見る時はこのページの「Anime in the USA」の下にある「Watch it now」をクリック。

今回のエントリーでは3つのパートからなる「アンダーグラウンドからのテープ」だけ、ざっと紹介。(個人のセリフは長くなるので要約)

<1976年>

アメリカが生誕200年を祝おうとしていたその時、一つの革命が起ころうとしていた。

全国のSFファンたちが、著作権の法律に戦いを挑み、利益追求の意志を捨て、地方UHF局が放送する日本産のアニメ番組の番組を録音し、他の地域のファンとテープを交換し始めたのだ。

この行動は結局最初の「ジャパニメーション」ファンクラブの結成へと結実した。ロスアンジェルスの「カートゥーン・ファンタジー・オーガニゼーション(CFO)」である。そしてアメリカに新しい“種族”を生み出すもとになった。日本アニメの普及を目指し、デジタル時代にも活躍するその無私無欲を基本とした一族の名は「テープ・トレーダー」と言う。

ジェフリー・ベック(Streamline Pictures*1 共同創設者)

違法であろうと合法であろうと、日本アニメをディストリビュートする会社はどこにもなくて、日本の会社はアメリカにアニメを売ることはできなかった。

ロスアンジェルスなどの日本人コミュニティー向け専門UHFチャンネルなどが発端になって、アニメ人気が広まったんだと思う。幸運なことに日本とアメリカのビデオテープには互換性があったので、70年代の終わりには日米のビデオの交換が始まった。

1977年の最初のCFOのミーティング参加者は16人。1987年には、会員数が全国で400人。

フレッド・パッテン(CFO創設者)

最初の頃のコンベンションではファンは手紙を出し、お互いの持っているビデオを確認してコンベンション会場にレコーダーを持ち込みダビングし合った。

<1995年頃>

アメリカでアニメ販売は行われるようになったが、それによってアメリカで手に入れられない作品を求めるファンを止めることはできなかった。

1995年、ニューヨークに「Anime Crash」登場。ニューヨークでの非アジア人向け初のアニメショップ。

アイザック・ルーDigital Manga オペレーション・マネージャー*2

日本アニメなんだから日本人のいるところにあるだろうと、闇雲に車を運転して日本アニメを探しまわった。まるで宝探しみたいだった。

<現在>

デジタル技術のおかげでケーブルやDVDで簡単にアニメを見ることができるようになったが、このこともアメリカで手に入らない作品を求めるファンを止めることはできなかった。

ファンサブ・グループLive-Evilでは、ファンサブの付いた1作品につき20万回ダウンロードされている。

トーフ先生ファンサブ・グループLive-Evil)

自分のいるファンサブ・グループでは、アメリカで発売されそうもない作品だけを流している。以前は日本で放送されてから、アメリカで見るのに数週間、1ヶ月かかったが、今では12時間後にファンサブの付いたアニメがネット上にアップされる。

自分のしていることは、日本アニメの普及という崇高な動機から。止めるつもりはない。

*1:管理人注:日本のテレビ番組をアメリカに輸入する会社。もう存在しない。

*2:管理人注:アイザック・ルーはDigital Mangaを既に退社している。