「グラフィック・ノベル」とはなにか?
前回のエントリー「2008年北米マンガ売上、2000年以降初めて下がる」(2月15日)で、「グラフィック・ノベル」「マンガ」「コミックス」の売上を取り上げたら、
「そもそも“グラフィック・ノベル”とはなんですか?」「マンガとの違いは?」
という質問をいただいた。
質問に答えようと返事を書いていたらかなり長文になってしまったので、ひとつのエントリーとしてアップすることにした。長いわりには内容がなくて申し訳ないのだが、実はこの類の質問は時々受けるので、今後同様の質問を受けた時のために、関連部分も含めてまとめて書いておく。そのため上の質問に直接関係のないことまで取り上げた。質問の答えだけ知りたい方は、記事の最初の<グラフィック・ノベルとはなにか?>だけ読んでいただければ大丈夫だと思う。
かつての当ブログの記事「シークエンシャル・アートってなんだ?」ともかなり重複しているので、そちらを読んだ方にも新しい情報はないかもしれないのでご注意を。
<グラフィック・ノベルとはなにか?>
結論から言うと、特に「2008年北米マンガ売上、2000年以降初めて下がる」(2月15日)で取り上げたような業界事情のような文脈で使われる際の「グラフィック・ノベル(graphic novel)」とは、日本で言うところの「単行本(tankoubon)」のようにコミックスをまとめて本にしたもののことで、「コミックスの本」と言う出版形態を指すと考えれば間違いはない。「グラフィック・ノベル」という言葉ではその本の大きさについて特定されないため、日本産のマンガ(manga)の単行本も「グラフィック・ノベル」に含まれる。
日本で「リーフ」と呼ばれる26ページほどの小冊子状のものは「コミック・ブック(comic book/comicbook)」と呼ばれ、「グラフィック・ノベル」には含まれない。しかし「コミック・ブック」で出版されたものががまとめられて本になると「グラフィック・ノベル」と呼ばれることもある。
「グラフィック・ノベル」=「アメリカ産コミックスの単行本」、「マンガ」=「日本産コミックスの単行本」、とする用法も見られるが、業界内では特に「マンガ」=「日本産グラフィック・ノベル」として、「マンガ」を「グラフィック・ノベル」の一部として語ることのほうが一般的だ。
前述の当ブログの記事の最後で表にしたような業界全体の売上は、「グラフィック・ノベル」と「コミック・ブック」というその出版形態の違いで分けられ*1、「グラフィック・ノベル(マンガを含む)の売上」+「コミック・ブックの売上」=「コミックス業界全体の売上」として把握されている。
出版業界内の使用としては「グラフィック・ノベル」=本(単行本)と言う理解で問題はないが、この言葉はそもそも長編のコミックスという比較的新しいコミックスの出版形態を表すものとして作られたと同時に、コミックスの内容にまで踏み込む、メディアそのものの名前として考案されたものだった。
言い換えると「グラフィック・ノベル」という言葉を作ることは、新しい名前をつけることによって、コミックス(の一部)を再定義しようとする試みだったのである。
<「コミックス」を再定義する欲望>
日本における海外コミックスの第一人者である小野耕世氏の著作『アメリカン・コミックス大全』(晶文社 2005年)に「グラフィック・ノヴェルとは何か?」という章がある。小野先生は「グラフィック・ノヴェル」を、
長編のコミックスを指してそう表現し、七〇年代なかばには、業界でも一冊三十二ページ(広告を含み、実質三〇ページほど)のコミックブックをはみだすような長編コミックスの出版物を、おおむねそのように呼ぶようになりつつあった。(p.405-6)
として、取り上げている。
「グラフィック・ノベル」という言葉を最初に使ったのは、アメリカ人コミックス批評家で雑誌発行人であったリチャード・カイル氏で、1964年のことだった。氏はそれ以前に「グラフィック・ストーリー」という言葉を使い、さらにそこから「グラフィック・ノベル」を作り出した。
リチャード・カイル氏がこの言葉を使い始めたのは、「コミックス」と言えばユーモアやギャグを中心とするくだらない内容の子供向けという印象を払拭したかったからだ。そもそも「コミック(comic)」という言葉自体が「コミカルな(comical)」というニュアンスを含み、ユーモアやギャグを連想させてしまう。
カイル氏は「グラフィック」(視覚的な、図形・絵画的な、など)という言葉を、文学との連想でシリアスな内容を想起させる「ノベル」と組み合わせることで、コミックスを文学などと並び得る芸術として扱って欲しいというニュアンスを込めたのだ。
ポール・グラヴェット(Paul Gravett)氏の著作『グラフィック・ノベルで知っておくべきこと(Graphic Novel: Everything You Need to Know)』*2によると、このカイル氏はヨーロッパのコミックス(バンド・デシネ)や日本のマンガにアメリカでいち早く飛びついた一人で、海外で実現されていたこのメディアの可能性に対して、アメリカのクリエーターや読者の眼を向けようとかなり努力した人物のようである。
カイル氏が作り出した「グラフィック・ノベル」という言葉はその後、偉大なコミック作家であるウィル・アイズナー氏の『神との契約(A Contract with God, and other Tenement Stories)』(1978年)の表紙に載ったことで一躍人の知るところとなった。
↓「グラフィック・ノベル」という言葉が表紙に付けられた『A Contract with God』。
A Contract with God: And Other Tenement Stories
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「コミックス」というメディアに刷り込まれた「くだらない子供向」という印象は、カイル氏が「グラフィック・ノベル」という言葉を作った1964年ですら、既に目新しいものではなかった。「コマ割りマンガ」の祖とも言われる19世紀のロドルフ・テプフェール*3すらも、その100年前1860年代、自分がコミックスを描くアーティストであることを知られたくないとして、本の出版を渋ったと言われている*4。
↓ササキバラ・ゴウ氏が手がけたテプフェールの日本版『M.ヴィユ・ボワ』。
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「コミックス」の言葉が想起するイメージに対する不満は「グラフィック・ノベル」という言葉を作ったカイル氏だけでなく、広く業界内で共有されていた。「スパイダーマン」などの創造で知られるアメコミ界の大御所スタン・リー氏はそのイメージを払拭するため「コミック・ブック(comic book)」という言葉を「コミック」と「ブック」に分けて表記するのではなく、「コミックブック(comicbook)」と続けて書くように提唱している。
「コミックブック」という言葉について言うと、自分は何年もの間、世界を相手に負け試合をやってきた。多くの人々は「コミックブックを「コミック」と「ブック」と二つの言葉のように書くが、「ブック」を「コミック」が形容しているように書くと、それは「コミカルな本」という意味になり、普通の読者に間違った印象を与えてしまう。だから「コミックブック」は一つの言葉と考えるようにしよう。それだけでとても違うんだ!そうすれば突然、その言葉は笑える本という意味からある特定の出版物を示す総称となる。(訳:筆者)
Stan Lee, "Introduction" in Les Daniels, Ed. "Marvel: Five Fabulous Decades of the Wolrd's Greatest Comics" Virgin/London 1991
その他、「コミックス」に代わり、 「イラストーリーズ(illustories)」*5、「ピクト・フィクション(Picto-Fiction)」*6などの名称も提案され、『マウス』でピューリッツァー賞を受賞したコミック・アーティストのアート・スピーゲルマンも「comix」という言葉を作り出したが、定着することはなかった。
↓小野先生翻訳の『マウス』。
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<シークエンシャル・アート>
しかし「コミックス」という言葉に取って代わることはなくとも、定着した言葉もあった。「シークエンシャル・アート(sequential art)」がそれである。「連続的芸術」*7とも訳されるこの言葉は、ウィル・アイズナー氏が1985年の著作『コミックス&シークエンシャル・アート(Comics & Sequential Art)』で初めて使ったと言われている。
↓『コミックス&シークエンシャル・アート(Comics & Sequential Art)』。残念ながら邦訳本は出ていない。
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一般的に英語圏で「シークエンシャル・アート」とは「コミックス(comics)」という言葉とだいたい同じ意味、つまり「コミックス」の別名のように使われることが多い。
この本の中でアイズナー氏が示す「シークエンシャル・アート」とは、以下の通り。
ストーリーを語り、アイディアをドラマ的に表現するために、絵・イメージ・言葉の配置を扱う創造的表現方法であり、明確な一分野を成す芸術的・文学的形式(訳・筆者)
(Will Eisner, "Comics & Sequential Art" Poorhouse Press/Florida, 5p.)
上記の引用からもわかるようにアイズナー氏が「シークエンシャル・アート」と呼んでいるものは「絵・イメージ・言葉を配置する」という一つの表現方法である。「コミックス」や「コミック・ストリップ」といった言葉は「媒体・形態」を表すものとして、区別して使っている。
「この本の中で(シークエンシャル・アートは)コミックスとコミック・ストリップへの応用という枠組みの中で検討されている(訳・筆者)」(5p.)や「現代では新聞のコミック・ストリップが、更に最近ではコミック本が、シークエンシャル・アートのための大きな表現の場となっている」(7p.)とあることからも、アイズナー氏が「シークエンシャル・アート」と「コミックス」「コミック・ストリップ」を分けていることは明らかだ。
つまり、アイズナー氏が「シークエンシャル・アート」という言葉を新しく提唱した理由は、『コミックス&シークエンシャル・アート』の中で特にその表現の「言語・文法」を詳しく論じるため、「言語・文法」を持つ表現方法とその表現が発表される「形態・媒体」の区別をハッキリさせておきたかったことにあるのは想像に難くない。
しかしアイズナー氏の「シークエンシャル・アート」という新語の提唱には、その他の理由もあった。ミラ・バンコ氏『コミックスを読む:コミックブックにおける言語、文化、スーパーヒーローの概念』によると、
「シークエンシャル・アート」には、“コミック”という言葉が持つ暗示的意味を避け、この媒体の初期の印象が与える風刺、ばかばかしさ、ユーモアとの連想を回避するという利点がある。この問題はドイツ語の“bilderstreifen”、フランス語の“bande dessinee”、イタリア語の“fumetti”には存在しない。実際、これらの言葉はストーリーを語る媒体というコミックスの本質を捉えている。コミックスは何かということを明確に定義し、コミカル(愉快な、おかしな)やユーモアといった連想からコミックスを引き離すという欲望は、コミックスを再評価することにおいて、批評的関心の一つなのだ。(訳・筆者)
Mila Bangco, "Reading Comics: Language, Culture, and the Concept of the Superheroes in Comic Books" Garland Publishing/New York 2000, 50-1p.
↓『コミックスを読む:コミックブックにおける言語、文化、スーパーヒーローの概念(Reading Comics: Language, Culture, and the Concept of the Superheroes in Comic Books)』。邦訳本は出ていない。
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誤解してはいけないのは、「グラフィック・ノベル」と「シークエンシャル・アート」という言葉が作られた根底に、「コミックスという言葉の持つ“ユーモア中心のくだらない子供向け”というイメージを払拭したい」という同じ欲望が共有されているものの、その作られた意図は明らかに違う、というところだ。メディアの名称を目指した「グラフィック・ノベル」と、文法の名称としての「シークエンシャル・アート」。
そして「グラフィック・ノベル」は時を経て「コミックスの本」という出版形態をも示すようになった。そして「シークエンシャル・アート」はその「コミックスの文法」を指す言葉から派生して「コミックスの最も短い定義、またはコミックスの別名」として使われることが多くなった。
「グラフィック・ノベル」も「シークエンシャル・アート」も現在では、コミックスに関連してほぼ一般に使われる言葉となっている。マンガに興味があるならその成り立ちを知らなくても、言葉の用法は知っておくといいかもしれない。
以上、「グラフィック・ノベル」に加えて「シークエンシャル・アート」について、ざっと説明してみたが、不備な点も多いと思う。ご意見があった場合、メールをいただけると有り難いです。
*1:流通も関わってくるが、長くなるのでそれはまた別の機会に。
*2: Graphic Novels: Everything You Need to Know
*3:「テプフェール」氏の名前表記は色々あって現在でも日本では定まっていない。漫棚通信さんの「マンガを創った男:ロドルフ・テプフェール」参照。
*4:Paul Gravett, "Graphic Novel: Everything You Need to Know" Collins Designs/New York 2005 p.9
*5:「イラストーリーズ(illustories)」は、コミックスのクリエーターであるチャールズ・ビロ(Charles Biro)提唱。
*6:「ピクト・フィクション(Picto-Fiction)」はコミックス出版人でもあったビル・ゲインズ(Bill Gains)提唱。
*7:スコット・マクラウド氏の『Understanding Comics』の翻訳書『マンガ学』における訳を使用。